特に虫の居所が悪かった訳では無い。
それは、赤子が揺れる炎に手を伸ばすかの如く、純粋で、誰もが先天的に持つ好奇心から自然的に発生したものだった。
月曜。7時43分 。
私は他人のキンタマを蹴ってしまった。
思い切り、蹴ってしまった。
「キンタマ」というのは、もちろん金属でできた玉ではなく、男性の睾丸の事だ。
小学校高学年の女子がその正体について友達と議論を交わしたり、交わさなかったりする、アレのことだ。
いま、私の足元には、初老の男性が這いつくばっている。
一応状況を説明しておくと、ここは電車内だ。
朝の通学・通勤ラッシュの中、私は辛うじて席を確保。
背負っていたリュックをお腹に抱え、眠りにつこうとしたその瞬間、私は弁慶を見た。
立派な仁王立ち。
電車の横揺れ縦揺れに備えて、どっぷりと足を開き、構える白髪混じりのサラリーマンだった。
堂々たるその立ち姿は、袈裟も薙刀もこしらえていないが、正に弁慶と言えた。
「見事な仁王立ちよ…」
試してみたくなった。
日々の通勤で鍛えられたであろう、その足腰と、バランス感覚を、試してみたい。
そう考えが及ぶ瞬間には、すでに右足が地を離れていた。
長身の割に短い股下は長年コンプレックスだったが、この時のためにあったのだろう、標的(キンタマ)へ、最短距離で到達する…!!
爆ぜた。
扁平足のスニーカーは2つの標的を確実に捉える。
ワンショット・ツーキル
刹那、弁慶の瞳孔がカッと開くと、視線は左右でばらけ、見事な仁王立ちは江頭2:50よろしく、膝を内に巻き込み、崩れる。
それから、膝、額、胴の順で地に落ち、ヤムチャスタイルで倒れ込むと、人とも妖ともつかぬ呻き声を上げながら小刻みに震え出した。
勝った。
"弁慶の立ち往生"なんて、伝説に過ぎなかったんだ!
800年の歴史は今宵、"ヤムチャ往生"に書き変えられたんだ!
車内はざわつき始め、スマホでヤムチャを撮影する者、「大丈夫ですか!?」と介抱する者。
だが、誰も私には声をかけてこない。
私の一閃が見えなかったか?そんなはずは無い。
少なくとも両隣の乗客は気付いている。
これが日本だよ。
ヒーローもののマンガが流行るには理由がある。
自分に力が、勇気が無いからだ。
医者が医龍を読むか?
ボクサーがはじめの一歩を読むか?
忍者がNARUTOを読むか?
海賊がワンピースを読むか?
皆、自分に足りないものを、コミックの中のキャラに仮託して、脳内で補完して、脳内で完結して生きている。
それを実際に行動に移そうものなら「厨二病」だのと揶揄され、異常者の烙印を押される。
皆が持っている、自分の欲求に忠実に従っただけなのに。
だれも、自分が異常者だとは決して認めたくない。
クラスのあの子が好きで、自分がイケメンで金持ちでモテモテになって付き合ってる姿を一日中妄想して脳内自慰しかしてないけど正常。
浪人だけど「高尚な目的のためにやってるんだ」とか言い訳ばっかしてる割には、学歴でマウント取ることを夢見てるけど正常。
皆、頭の中は異常で、アタマで抑圧しているだけだ。
そうしているうちに、悪に対しても悪だと言えなくなってしまった。
私は欲求に忠実に手を伸ばした。
いや、足を伸ばした。
その結果分かった。
弁慶の泣き所は2つある。
監督・脚本 俺