今日、LGBTqをはじめとするセクシュアリティや職業観について、多様性を求められる社会になってきました。
しかし、その反動か、何かを主張すると、すぐに「炎上」というのが世間の流れになっているように思います。
無論、不確かな情報を吹聴して、他人に直接的に不利益を与えるような炎上はあってしかるべきでしょう。
しかし、それが行き過ぎて「他人の粗探し」を第一の命題として、炎上を恐れ、個人の発言が抑圧されるようなことがあっては、何の議論も進まず、まったく面白みのない世界になってしまうのではないかと感じざるを得ません。
とくに、2000年代以降に生まれたミレニアム世代は、物心ついた時からスマホを手にして、そうした炎上に度々触れてきたはずです。
今後、世間の「スタンダード」を過剰に意識し、精神的に窮屈な生活を送っていくような人々が増えていくのではないでしょうか。
こうした流れは、閉じられた小さいコミュニティーを乱立させ、互いに不干渉の、分断化された社会を生じさせます。
今回は、そうした社会の是非を問うというわけではありません。
それよりも根本の、「偏見をなくそう」といった姿勢に疑義を呈する内容です。
「それは道徳的によくない」
「不謹慎だ!」
「不快に感じる人もいる!」
「それはあなたの偏見に過ぎない!」
いわゆる「炎上」のスレッドには、ほとんどの場合がこうした意図の文言で埋め尽くされます。
こうした文言は、発言に「完璧」を求めているのです。
ここでいう「完璧」とは、自分の所属するコミュニティー内での完璧。
こうした発言をする人々は、世の中にただ一つの正義があると、道徳が存在するということを無意識のうちに前提しているわけです。
しかし、どうでしょう。
道徳こそ、正義こそ、偏見の塊なのではないでしょうか。
ある国で許されていることが、別の国では許されない。不妊治療や、埋葬の方法など、いくらでも例が挙げられます。
そうです。道徳や法はコミュニティによって異なり、唯一絶対のものなんて存在しないのです。
そして、今やその道徳や法、政治、国語は民主主義のもと、多数決によって決められているのです。
多数決とは「私はこれが正しいと思う!」という偏見の総和を比較するものです。
そうです、「それは偏見だ!」という主張そのものが、偏見によって形作られた道徳観に基づくものであるのです。
「偏見をなくそう!」という運動は、「道徳をなくそう!」と言っているのと全く同じだということです。
そんなこと、できるわけないっすよね。人間だもの。
こうしてみると、「炎上」を取り巻く人物に、偏見を持たない人物など存在していないわけです。
自分が正しいという錯覚が「炎上」を生むのです。
ここで、私は「炎上をなくせ!」ということを言いたいのではありません。
むしろその逆。
「もっと炎上させよう!」ということを言いたいです。
先に述べたように、そもそもこの世界は偏見に満ち溢れていて、それを無くすことなんてできない。
さらに、価値観や道徳観なんて相対的なものに過ぎないのだから、なにを言っても正解なわけです。
だから、「偏見の無い世の中を!」と訴えかけることは甚だ無謀なことであります。
それよりも、偏見を所与のものとして、それを受け取る自分の精神を鍛えることが重要なのではないでしょうか。
コンビニのエロ本を規制したところで、それが子供の「健全」な成長につながる因果関係はあるのでしょうか?