ハネウマライダー
三十路にさしかかる
5年で辞めようかと考えていたコンサル会社では、
到底かっこいい辞め方ができるような状態ではなく、
延長戦を強いられている。
剣道では延長戦で勝ったことがない。
理由は単純だ。
「延長」と言うのは、「負けていない」ということ。
勝負をしていないということ。
「勝ち以外は引き分けも負け」
ゴミ親父にガキの頃散々叩き込まれていた言葉。
ゴールデンウィークで帰省した。
無職のゴミ親父は還暦手前にして前歯がほぼ無かった。
母ちゃんは健気にコールセンターのパートで働いて、
ゴミを養っていた。
「あんたにだけは迷惑かけんようにしないとね」
親父は元々個人事業主で、年金はロクに払っていなかった。
長男坊は行方も知れず、親戚も頼れない。
「そういえば、あんたは結婚しないの?」
親心だ。
母ちゃんは、私の人生に口出しするタイプではないから、
むしろ親の自分達の負担で私に迷惑掛けていないか、
という優しさだった。
確かに、気がつけば再開した同級生は皆、
結婚していて、子供もいた。
自分が直ちに結婚を望むかというと、
そんなことはなかったが、
「さすがに安心させてやらないかんな」
と、月並みな悩みをかかえるハメとなった。
『大切なものを乗せて走りたいなら、
生まれ変わっていかなければねえ。』
ガキの頃によくも分からずノッていた
ポカリスエットのCMソング。
甘酸っぱいなんて言ってられない年齢になってしまった。
=
能力は、生まれの運
「努力できる」というのも、生まれの運
そして、この世は偶発性の連続である
自分の努力や選択のおかげで成り立つことなど少ない
自分のおかげ、と見えているのは、自らの知覚できる事象を都合よく引き合いに出しているだけ
更に、自分がうまくいくことで苦しむ人がいることや、地球の裏側で悲しむ人がいるなんて、知覚できない
想像もしなかった
こんなことを考え出すと、すべて自分の選択が意味のないように思える。
意味、とは
自分が認められるということ。
自分の努力が認められること。
目の前の人が喜ぶこと。
社会が良くなること。
要するに、こういった願望は、
世の中が自分のコントロールできるものだと、思い上がっているのだと。
そう考え出すと、自分が思い悩んでいることが、
すべて意味のないように思える。
(「自己効力感」が低下したのだろうか)
「自分なんて、この世におってもおらんくてもええやん」
と、無気力になる。
久々に自分の無力さに浸ってしまった。
希望がなくなってしまった。
でもまあ、可能性があるのなら。
自分の選択により、少しでも相手が喜ぶ可能性があるのなら。
傷つけてしまう可能性もあるが。
相手が喜んでいる陰で、
苦しむ人を生むこともあるかもしれないけど、
すべて可能性の話なら。
どこまで行っても可能性の話なら。
自己中に可能性を追い求めてもいいのか。
そもそも誰も縛っていない。
すべて完璧にスジを通す、
みんなが皆にとって「善い」と思える選択を
選ぼうとしても、キリがない。
こんなにキリがないことに悩んだこと、
それこそ「意味がなかった」のかもしれない。
いや、意味は、後から判断するものか。
私だけが判断するものでもない。
私が意味の無いと、切り捨てた時間が、悩みが、
誰かにとって意味を持つ日が来るかもしれない。
すべてが可能性なら、自己中に選択し続けようか。
Progress, not perfection.
デンゼル・ワシントンが、『イコライザー』で
ダイエットできないデブの友人に言ったセリフ。
結局、欧米のノリが生じさせた矛盾を
欧米のノリで解決するという結論に至る。
ただ一つ、これを他人に向けて発信するときには
気をつけなければいけないと思う。
10代の焦り
20代前半の焦り
30手前の焦り
どれも大切にしていたい。
自分が善いと思うものではなく、
相手が善いと思うものを導ける人でありたい
一は全、全は一
「努力は報われる」
個人主義の代名詞ともいえるこの言説は、
人間を規格化された独立した存在であることを前提としている。
全て皆人類は、同一の能力を有していると仮定するからこそ
「(私はこれだけ努力して今の存在になった。だから)あなたも努力してほしい」
となる。
全て皆人類は、周囲の環境から独立していると仮定するからこそ
「努力」というインプットに対して「成果」が直線的にアウトプットされると妄信する。
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もし、あなたが、例えばニュースの犯罪者と寸分違わない遺伝子を有して生まれ、
全く同じ環境で育ったのであれば、あなたは今のあなたでいられるだろうか。
このような単純な問いで、欧米を中心に数十億の人間が明日の希望(あるいは今日の絶望として)しがみついている個人主義は2つの理由から崩れ去る。
1つ目は、人間は規格化された存在ではないこと。
「あなたは、私と違う」という単純な結論である。
例えばIQという概念が生まれたのも、このような直観を可視化することに寄与している。
「同一の規格は存在しない」ともいえる。
だからこそ、父母や同僚や部下や顧客は、あなたの思い通りにはならない。
(あなたと同じインプットでは、相手はあなたと同じアウトプットを出力しない)
これは、おそらく直感的にも理解しやすい。
2つ目は、環境は常に変化し、自らも環境を変え続け、自らも変わり続けているということだ。
もし仮に、あなたが、今のあなたと全く同じ規格を持って、
ニュースの犯罪者と全く同じスタート地点から人生を始めたとすれば、
あなたは全く同じあなたでいられるか。
これは、直感的にも否定される感じはする。
多くの個人主義の啓発本で「(成果を上げるためには)環境を変えよ」という
見出しを目にするように、「環境の大切さ=個人に与える影響度の大きさ」を
否定する人は少ないように思う
だが、このような場合はどうか。
もし仮に、あなたが、今のあなたと全く同じ規格を持って、
あなたの人生のスタート地点から再び人生を始めたとすれば、
あなたは全く同じあなたでいられるか。
直観的には、「Yes」
つまり、「全く同じ私で、全く同じ環境であれば、今日も明日も明後日も、全く同じ選択をするだろう」
ということだ。
だが、そもそも「全く同じ私」「全く環境」という前提が破綻している。
世の中は「Aというインプットに対して、Bというアウトプットを生み出す」のように
単純明快で論理的なつながりがあり、再現性が担保されたものではないからだ。
ご承知おきの通り、人間は合理的な選択という観点で
全くもって完全性を有していないし、
「突然変異」という言葉がある通り、それ自体に人類の期待する意味(役に立つ≒生存に有利な)を持たない、予期せぬ細胞分裂は自然に起こりうるからだ。
この世界は、偶発性の連続であり、合理的な世界ではない。
意味や関連性を欲しがる人は多いが、私たちを取り巻く多くの事象において、
本のタイトルになるような革新的な、この世を明らかにするような
繋がりは無い。
そのような意味で、「全く同じ私なら、全く同じ環境において、(過去と)全く同じ選択をする」ということはあり得ないのだ。
であれば、今の私が今の私であるのは、誰にとって何の意味もない、偶然の連続であるのではないか。
踏み込むと、「自分の決定は自己を決定付け、自己の人生を(大小あれど)コントロール可能である」というのは、愚かな思い上がりとも思える。
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それでも
「私は、過去の重大な決定において、自分自身が熟慮と努力を積み重ねたからこそ、今の私がある」
と、感覚的に否定したくなる人は多い。
だがこれも2つの理由から退けられる。
1つ目は、「環境があなたの選択を左右するというのを認めるのであれば、
もはやあなたの行う選択はあなた自身の選択ではない」ということ。
2つ目は、「「過去の重大な決定」以外に今のあなたを支えている事象は(あなたが重大な決定だったと思っているものより、遥かに数多く)存在する」ということだ。
ある通勤中に、突然居眠り運転のトラックに轢かれ、命を落としてしまう。
良かれと思った部下への励ましが、負担に受け止められ、退職する。
朝、なんとなく前髪のセットが決まらず、1本違う列車に乗っただけで、事故に巻き込まれる。
こんなことはだれにでも起こりうる。
ただ、今のあなたには「たまたま」起こっていないだけ。
あなたが、特別ではないと捉えている「日常」が、実は様々な偶然から成り立っているということには、多くの人は目を向けない。
実際には、無意味に、たまたま、自分の選択(と思っているもの)とは関係なく命を落とす人がほとんどなのに。
また、多くの人間は、小さい(と捉えている)選択や、自分が周囲に与える変化の価値を見誤っている。
あなたは、たまたま、その日の湿度が高く、前髪が決まらなかったために、電車を一本遅らせる。
そこに居合わせたAさんは、あなたを目にして、たまたま、何となく、いつもより電車が混んでいる気がして、電車をあなたよりも一本遅らせる。
そうすると、あなたはたまたま遅らせた電車で事故に巻き込まれ、Aさんはたまたま遅らせた電車で事故に巻き込まれずに済む。
あなたの何気ない選択が、だれかの選択を変え、その後の結果を変える。
こんなことを繰り返して、この世界の日常は成り立っている。
小さい、些細な、なんでもない、と考えられる選択が、あなたを変え、世界を変える
この世はあらゆる変数と定数に解析であり、可能独立した個人の自由意思により、あらゆる事象はコントロールできるという個人主義は、複雑な世の中において心地よく、希望を与えてくれるように思えるが、非常に脆い考え方である。
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一は全、全は一。
私は世界の一部であり、世界は私の一部である。
私は世界を構成する一部分にすぎないが、私の何気ない選択によって、世界に決定的な影響を与えているかもしれない。
そして、その影響は多くの場合、自分で知覚することができない。
裏を返せば、自分が知覚することのない、あらゆる人類の選択、あらゆる自然環境の変化によって、自分は形づくられている。
私は常にこの世界と接続しており、変化を与え・与えられている。
こんな世の中にあって
経営コンサルティング
という個人主義の生み出した職業に在る。
あらゆる小さい(と思わられる)変化を削ぎ落し、
観察可能な事実のみを取り上げ、
最もらしい図や単純化されたグラフで
顧客を導く。
「この世のあるがままの真理を理解したい」
そんな自分には、
向いていない職業なのかもしれない。
そう思う一方で、
私という存在は、この世界にどんな影響を与えるのだろうか、という好奇心も出てくる。
それは、私が一生知覚することのできない影響かもしれない。
誰にとって、何にとっても(社会的・経済的に)意味のない影響かもしれない。
もう、私がこのような考え方を知ってしまったという事実は変えられない。
見たことも、あったこともない人間の言説のせいで、
幾億年の連綿とした歴史の、偶然の積み重ねの中で、
私は、生まれ、また、変わってしまった。
これを読んでいるあなたも
人生のどんなタイミングでもなく、「今」読んでいるあなたも、
何らか、変わってしまった。
このようにイメージを膨らませると、
もう少し、私と世界との繋がりを観察してみよう、と思える。
一は全、全は一
とうすい
18年前。
サンタに「戦車のラジコン」を願った。
土曜日の昼、トイザらスのチラシを眺めて、決めた。
BB弾を発射できる、大きなラジコン。
サンタがいないことは知っていた。
親を試した。
誰にも内緒で、枕元に手紙を置いた。
翌朝、サンタは来なかった。
これみよがしに、母親に泣きついた。
母は困っていた。
その日、母の帰りがいつもより遅かった。
私がリビングから自室に戻ると、簡素な包みがあった。
「戦車のラジコン」だった。
願ったものではなかった。
ダミーの発射口から音と光が出る、
ひと回り小さな戦車。
また泣きついた。
「お願いしてたのとはちがう!」
その時の母親の表情が、忘れられない。
悪いことをした、と思った。
結局、「戦車のラジコン」はほとんど遊ばなかった
母からのLINEに返信していない。
私は、人の愛情を無視することが得意だ。
自己評価だけが高くなる。
群れることに快感を見出して死ぬ #全員
2025年11月1日
28歳0カ月
生きること についてひさしぶりに考える。
ひたすらに労働する毎日。
労働のために捧げる。
資産無し。
私にとって、「労働」は何を意味するのか。
私にとって、「労働」は何の象徴なのか。
7時~21時(23時~26時)
労働する。
数字・成果を上げる。
客の為ではない。
自分の為。
自分の何の為?
プライドの為。
プライドとは?
誇り 、 ではない。
そんなに綺麗なイメージではない。
カッコつけている感じがする。
検索する。
egoism
self-love
こっちの方がしっくりくる。
自分を愛している。
自分が好き。
だから、自分を認めて欲しい。
認められたい。
自分の頑張りを。
うん?
少しズレた気がする。
「自分を認めさせたい」
うん。
これが近い。
裏を返すと、「認められていない」と感じている。
認める、とは。
「正しく、事実を認識すること。」
いやいやいや、なんか大きくズれている気がする!
単純に、マウントを取りたいだけ。
人よりも優れていないと、気が済まない。
「優れている」と認められていないと、怖い。
優れていることに、価値(勝ち)を感じている。
もう少し掘り下げたい。
何を恐れているのか。
認められないこと。
認められないとは?
価値が無いとみられること。
価値が無いとみられると、、、
貧しくなる?
➡そんなことはない。
虐げられる?
➡かもしれないが、孤独が怖いわけではない
もちろん好かれたいが
価値がないとみられると、
見下される感じがする。
人に見下されるのは、我慢ならない。
マウントを取っていたい。
人の上に立っていたい。
なぜ、我慢ならないのか。
所詮他人に、
他人の価値観で、
判断されているだけなのに。
気にしなくても良いはずなのに。
舐められるのは嫌い。
見下されるのが嫌い。
反発は防衛機制。
何を怖がっている?
何を守ろうとしている?
自分の領域を土足で踏み荒らされること。
そのように感じてしまうこと。
何がある?
何を守ろうとしている?
自分の弱さ?
弱い自分を気づかれたくない。
なぜ?
弱いことは、良くないことだと思っているから。
弱いことは、価値の低いことだと思っているから。
なんだ、別に大したことないな。
オスとして、普通じゃねえか。
マウントの取り合い。
縄張り争い。
至って、生物として自然。
悪い、良いではなく、
生物として正常な機能。
そりゃそうか。
ということ。
人間だから、
生物としての「強さ」に加えて、
「社会性」が求められることがある。
「能力が高いだけ、人間性は終わってる」
人間だから、
生物として至って通常の本能を
疑ってしまう。
疑わずに従ってしまえばよい。
んだけれど、
うだうだ考えてしまう。
めんどくさい。
考えたって、答えが出るわけではないことを。
なぜ、考えてしまう?
➡「考える」ことが快楽だから
考えることで、「向き合っている」感じがする。
逃げていない、頑張って乗り越えようとしている感じがする。
弱い自分ではない、それを否定しようとしている感じがする。
だから、不快ではない。
向き合っている自分を妄想することで、
強い自分になった気がする。
全然何も変わっていないのに。
本当は、逃げているだけなのに。
休日は、寝て、食べて、ゲームして、映画見て、
逃げて逃げて逃げてるだけなのに。
いやいや待て待て、
だからそれは生物として至って普通なんだって!
たまたまオレが本能的な人間だっただけなんだって。
ところで、ほとんどの生物にとって「強さ」は
生得的なものであるように思いますが、
どうなんでしょうか。
DNAで決まっているように思うけれども。
デモ、人間は違う
と、多くの人は信じたがっていますね。
というよりも、
「強さ」の示し方が多様ですわね。
つまり、「強い」の定義が
生物と人間では違うと。
生物は生存したものが「強い」
では、人間は?
生存は、当たり前。
マズロー的に言えば、生存→安全→所属→承認→自己実現
何が強い?
自己実現したやつが一番強い?
いや、強い、って言葉はなんか変じゃねえか。
せいぜい、「強い」って言葉が当てはまりそうなのは、
安全(経済的・健康的)の段階までな気がする。
つまり、オレは、安全でありたいって考えてるってこと?
確かに、カネはないけど、、、
でも、カネが欲しいのは、カネというものを
「力(強さ)」の象徴だと捉えているから、だと思ってた。
つまり、カネを手に入れる=承認の欲求だと思っていた。
けれどもそれは、もっと低い段階の欲求だったということ?
自分は経済的・健康的に満たされていると思っていたが、
そんなことはなかった。
所属や承認の段階なんかではなかった。
もっともっと前の段階で行き止まりになってた可能性がある。
「強さ」を気にしたくないのであれば、
まずは、経済的・健康的な欲求を満たすということ。か。
確かに、生活はできているから、経済的・健康的に満たされているように
思うけれども、それは”見かけ上”の話であって、
欲求が満たされているかどうかは別問題か。
本当は、自分はもっともっと貧しいのかもしれない。
うーん、
途中でロジックが崩れてるな。
はーあ、めんどくさ。
でもなんか頭使ったらちょっとスッキリした。
逃げよう。
収穫としては、
自分は動物として何らおかしくない、ということ。
ただ、なんとく「人間だから求められる、生物としての強さだけでない、社会性」
というものは、「貴様は生物としてオレより弱いくせに、社会性を持ちだすな。それは逃げているだけやろ」って気持ちになるってことも分かった。
ん、おれ逃げている人も嫌いやな。
個と集団
個としての力を高められないやつが、集団で馴れ合っている。
それが許せない。
なぜなら、自分に無い「社会性」という強さを持っているから。
妬ましい。
ナーーんだ。
割と脳みそ使って考えた割にはありきたりな結論やないか。
個としての強さ
集団の中で発揮される強さ
お互い認められるといいよね。
っていう、「社会性を持とうとしている自分」も
気持ち悪いと思ってしまう。
本音で言うと、
「んなこと知らねえ。群れてることに快感見出してるやつなんてキショすぎる。死んでくれ。くたばれ。」
あーーーーもういいや
全員だまらせりゃええんやろ。
どっちも手に入れるわ。
生物として、人間として、強く。強く。
強くなってだまらせりゃええんやろ。
全員くたばれ。
ところで、その”全員”ってだれだろう、、、、
・
;
;。
。
、
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以上、23時~23時50分の頭の中を書きだしました。
これをAIにタイトル付けしてもらいました。
思わず笑ってしまったタイトルを採用しました。


フグは損金算入できない
人生で初めて、フグを食べた。
顧客との会食で料亭にお招き頂いた。
(カッコつけているが、上司の顧客だ。私は金魚のフン。鞄持ち。)
ヒレ酒を片手に、てっさ、からあげ、てっちり、最後は雑炊と、フグづくし。
ーーーーーーーーーー
フグ料理は、山口県など関西を中心に、太平洋戦争後に広まったとされているが、江戸時代からその食文化は確立されていたという。
フグの刺し身を「てっさ」
フグの皮を「てっぴ」
フグの鍋を「てっちり」
などという。
わざわざ言い換えるのには諸説あるが、
①「フグ」は「不遇」を連想させ、縁起が悪い
②当たったら死ぬ「てっぽう」とかけている
というものが有力だそう。
大阪では、「テッポウ料理」「テツ」などと呼ばれている。
関西出身であるにも関わらず、これまでお目にかかることはなく、語源も知らず、少々バカにされたが、これで一生忘れないだろう。
ーーーーーーーーー
もちろん、ウマかったが、お値段もそこそこ。
3人で3万9,000円。
1人あたり1万3,000円。
ーーーーーーーーー
接待交際費の損益参入基準が変更となる。
これまでは、1回あたり1人5,000円以下であれば、接待交際費として、損金参入できた。
これが、来年4月からは、1人10,000円まで上限が引き上がる。
昨今の物価高を加味してのことだ。
また、コロナ禍以降の企業交流を促進するねらいもある。
日本商工会議所は上限20,000円を要求していたようだか、与党は上記の通り10,000円で決定した。
ーーーーーーーーー
フグは交際費で落とせない。
(厳密には、中小企業は50%までなら損金算入可能だ※年間800万円まで)
スタバマルチ
繁華街の喫茶店では、よく聞く会話。
「会員紹介するだけで、33,000円やで!」
「あなたのグループをつくって!いずれは自社ビルとか!!」
「今の仕事一本やとキツイよね〜」
マルチ商法というやつだ。
ーーーーーーーーー
今日は、久々に有給。
平日のスタバ。
ブレンドをオーダーし、着席。
隣の席に座っていたのは、20代前半と見える女性3人組だった。
冒頭の会話が聞こえてくる。
どうやら、勧誘側(仮にAとする)は一人。
2人組の友人に対して、入会と商品の購入をまくし立てている。
20分ほど経過しただろうか。
友人2人組は「考えをまとめたい」と、席を立ち退店。
席を立つやいなや、Aはスマホで電話をし始めた。
「今店出たから、追いかけて話聞いて!早く!!」
つまり、このAは、一人ではなかった。
子分を従えており、複数人で会員勧誘を行っていたのだ。
5分ほどすると、Aのもとに子分と見られる女性が2人やってきた。
「渋かったです〜」
ーーーーーーーーーーー
さて、マルチは一体何が問題なのであろうか。
「マルチ商法」
会員の紹介料や、商品販売のリベートを誘引として、会員を勧誘し、ヒエラルキーを築くものであるが、問題は大きく下記2点だろう。
・悪質な勧誘
・そもそも儲からない
・悪質な勧誘
SNSを通じて、会う目的を伝えずに勧誘。
密室で、複数人で取り囲み、勧誘。
契約書を交わさない、勧誘。
などなど、その強引・悪質な勧誘が問題視されている。
(組織そのものは合法である)
日本アムウェイは、上記のような勧誘により、2022年に消費者庁から取引停止処分を受けている。
・そもそも儲からない
正しくは、多くの会員は儲からない。ということ。
マルチの主な収入源は、会員の紹介料である。
無限に構成員が増えるのであれば、理論上は儲けることも可能だ。
仮に、組織トップのAの勧誘で入会した会員が、さらに2人ずつ会員を増やすとすると、
会員総数=2^n
このnが、27の時点で、日本国の人口を超え、33となると世界人口を超える。
つまり、会員を増やし続けるには限界があるのだ。
紹介料は、都度払いなので、収入はかなり早い段階で頭打ちとなる。
こうなると、もう一つの収入源である「物販」による収益を求めることになるのだが、これがまた苦しい。
化粧品や家電製品などの物販を個人へ販売するが、当然そこで発生した利益から上納金を差し引いたものが自分の取り分。
ただでさえ低い粗利から、上納金を納める。
ヒエラルキーの上層にいる者は、下にいる会員へ売りつける。
すると、下にいる会員は売り切れない不良在庫を抱え、結果的に大きな損失を被る。
販売されている製品そのものは、多くの場合が「まともな」製品だ。
製品に罪はなく、それを売る構造に問題がある。
ーーーーーーーーー
バカを使役する構造。
まさに「ヒエラルキー」である。
だが、売られている製品同様、会員にも罪はないように思う。
彼ら彼女らも、好き好んで騙されているわけではない。
今どき、公民や家庭科の授業で、マルチ商法や、クーリングオフについては学習するが、それでも無くならない。
ーーーーーーーーー
マルチ商法という仕組みのみならず、それが是正されない社会、能力(IQ・EQ)の遺伝格差、教育機会の格差、スタグフレーション
この世のあらゆる構造に問題がある。
そこに巻き込まれた人間に罪はない。
だからこそ、隣に座っている人の行く末を考えると、酷く胸が痛む。
しかし、私はなにもできなかった。
何もしなかった。
24歳、新卒。
どうも、みるこです。
年の瀬、世間の人たちはとても忙しくしている。
仕事もそうだが、クリスマス、忘年会、新年会。
そんな、師走。
あれから4年半、24歳の新卒としてサラリーマンになって分かったことがある。
普通に働いていたら、浪人のことなんか振り返る暇なんてない。
この「普通に」というのが難しいところだが、たいていの人は目の前の仕事に追われ、新しい出会いもあり、パートナーの有無を除けば、いわゆる「リア充」になれる。
というか、会社で働くってそういうことだと思う。
で、あるから、過去の惨めな失敗よりも、目の前にいる人と、より良い関係を築くことに神経を使うのだ。
「学歴コンプレックス」なんて言葉があるが、社会に出てから耳にしたことが無い。
別に無意識に押し殺しているとか、そういうことでもないと思う。
要は、「そこじゃない」のだ。
今悩んでいるのは、どちらかというと過去の失敗ではなく、未来への不安。
目指せる夢があるなら、その方がマシだ。
それよりも、見てきた夢が、叶わないことへの不安が大きくなる。
「叶わないかもしれない」ではない、「叶わない」のだ。
それは、周りの人間を見れば分かる。
結婚して、子どもができて、時間がなくなって、それもアリだと諦めて、多様性という名の言い逃れをして、夢の当事者でなくなっていく。
夢見ていた日々が、日に日に消費されていく感覚。
ゆっくりと、着実に死へ近づいていく感覚。
そうした感覚から来るものは、「学歴コンプレックス」ではなく、「がんばらなかったあの日に対する後悔」でもなく、「がんばれないんじゃないか」という、信じ続けてきた自分への疑念。
大人は、自由だ。
だが、自由は怖い。
それは宅浪時代に痛いほど経験した。
24歳、新卒。
10万アクセス![人気記事ベスト3]
どうも、みるこです。
先日、本ブログが累計10万アクセスを突破しました~
そこで、人気記事ベスト3と、個人的なおススメ記事を紹介したいと思います!

[第3位]「関正夫信者になって後悔した話」
人気記事第3位はこの記事!
受験英語界の革命児、関正夫先生についての記事です!
数年前、突如として現れたスタディサプリ(旧「受験サプリ」)の英語科の講師として、受験英語界に革命を起こした彼。
当時は980円/月という圧倒的な低価格で見放題という革新的なサービスに胡散臭さを感じる人が大多数でした。
しかし、今や公教育にも導入されるまでの信用を得るまでになりました。
その「スタプラ」の広告塔として、CMに出演し、多くの受験生を牽引してきたのが、関正夫です。
彼には今でもアンチが多く、良くも悪くも注目を集め続けています。
この記事では、そんな彼の講座を受講した私の率直な感想と、成績の変化をお伝えしています。
彼の講義を受講しようか迷っている方、「信用できない!」と高を括っている人にぜひとも読んでほしい記事です。
[第2位]「宅浪vs予備校 迷ったら読め!~費用編~」
人気記事第2位はこの記事!
受験生だけでなく、親御さんからの人気も博しております。
宅浪か予備校で悩んでいる方が一番に直面する費用面での不安。
当記事では、私の宅浪経験から算出したリアルな数字を提示し、よくあるまとめ記事とは一線を画すものとなっております。
参考書はどれくらい購入して、模試はどれくらい受けて、いくらかかったのか、具体的な数字を提供しています。
また、この記事と併せて↓の記事もぜひとも一読いただきたいです。
この記事では、宅浪の私が駿台の夏期講習に潜入したり、予備校の友人から得た情報をもとに「予備校生の日常」をまとめたものです。
多額の投資をした先に果たして有意義な学習環境はあるのか、成績は上がるのか、宅浪で成績を上げてきた私なりの視点から洞察した記事になっております。
宅浪か予備校かお悩みの方に参考になる記事だと確信しております。
[第1位]「宅浪失敗記⑧冠模試ラッシュ!宅浪が11位!?」
栄えある人気記事第1位はコレ!
私が宅浪に失敗する過程を、生々しく、詳細に記した「宅浪失敗記」シリーズ。
受験に失敗した宅浪の生活をここまでリアルに描いた記事は他には無いと自負しております。
自分の失敗談なんて誰も晒したくありませんからね。
その中でも人気だったのが、宅浪の10~11月の模様を記した当記事。
河合の「オープン模試」や駿台の「実践模試」といった、大学名を冠した模試が一斉に行われるのがこの時期。
難関大学を受験する方にとっては気が気でないわけで、多くの受験生の方に読んで頂きました。
この記事で私は「阪大オープン」、「阪大実践」、「神大オープン」を受け、そのすべての結果を晒しています。
中でも「神大オープン」では全統模試とのドッキング判定で11位を獲得しました。
宅浪でこのような成績をあげるに至った経緯を詳細に記述しております。
ぜひ、その他の「宅浪失敗記」シリーズと併せてご覧になってください!
宅浪失敗記、第1話↓↓↓
予備校に潜入して感じたこと↓↓↓
大団円?宅浪失敗記、最終回↓↓↓ (ちなみに人気第4位の記事です)
~おまけ~個人的おススメ記事!
この記事は、私が大学2回生の時に書いたものです。
宅浪に失敗した者は、妥協した大学で何を思い、生活しているのでしょうか。
受験失敗の先に待つものは何なのか。
浪人しようか悩んでる方、勉強のモチベーションが上がらない方、皆様にぜひ読んで頂きたい記事です。
ありがとう、がんばろう、受験生。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます。
また、これまでご愛読していただいている方にも改めて、感謝をお伝えしたいです。
当ブログが発足したのは2017年3月5日。
当初は人様に読んでもらおうという考えはありませんでした。
ただ、自分の苦しみを文字に起こすことで、気分を紛らわそうとしてただけです。
それが今や、こんなにも多くの人に読んで頂けて、TwitterのDMで「みるこさんの記事を読んで勇気をもらえました!」なんて言っていただけるようになり、本当に驚きの連続でした。
なんでも、続けるといいことあるんすね。
さて、受験生の皆さん。
大変苦しい思いをしていることでしょう。
それぞれが、それぞれの環境で、苦しみながらも頑張っていることでしょう。
そんな苦しみは、友人はおろか、家族にだって理解されないことだってあるでしょう。
どうか、本当に頼る人がいなければ、私で良ければお話を聞きます。
力になれるかどうかは分かりませんが、精一杯対応いたします。
毎年、何人かの受験生とDMでお話したり、電話させてもらったりと、連絡を下さっています。
どうか、自分一人で悩みすぎないように、健やかに勉学に励んでください。
全受験生、応援してます!
質問や感想は、コメント欄とTwitterから、気軽にどうぞ!
おにゅー Twitter↓
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私について
今回は受験でもなんでもなく、私という人物に関する記述であるため、暇な人だけ読んでください。
ちなみにクソ長いんでオススメしません。
〇 〇 〇 〇 〇
壁を作る
これは私が就活をしていたときのこと。
自分という人物はどんな人間なのか、一番尊敬している友人2人に聞いてみた。
いわゆる”自己分析”ってやつの一環として。

「芯があって、ストイックに取り組むことはできるが、排他的で壁を作ってしまう」というのが彼らの見解らしい。
彼らとは幼稚園以来の同級生で、彼ら以上に私を知る人物はいないだろう。
「そのとおり。」
頷くしかなかった。
私がなぜそのような人物になってしまったかということを説明するには、私の家族のことをお話しする必要があります。
〇 〇 〇 〇 〇
家族
私は兵庫県の片田舎に生まれ、育った。
4つ年上の兄と両親の4人家族。
我が家は父親を中心に回っている。
父はサラリーマン。
ザ・昭和の亭主関白で、自分の思い通りにならないことがあれば声を荒げ、簡単に手を上げる。
私や兄だけでなく、母親にも手を上げることだってある。
鉄拳制裁。
いや、大義名分がある制裁ならまだいい。
要領が悪かったり、何か失敗をしたときは必ず「バカだ」と罵倒しながら、殴られたものだ。
「殴り棒」という、私と兄を痛めつける専用の棒(元々は釣り竿の材料)があったくらいで、ミミズ腫れは4,5歳からつくっていた記憶がある。
何かあると、
「殴り棒取ってこい!」
と、自ら取りに行かされた。
全く、今振り返ると、奴隷のような扱いであった。
とにかく頑固で、バカが嫌いで、利己的な人間。
一方、母親は優しく、いつも私たちをかばってくれた。
母も決して気が弱いわけではない。
間違っていることがあれば毅然とした態度で叱ってくれた。
そして、勤勉で、「学ぶ」ことを愛している。
今でも英語の参考書を買ってきては読み漁っている。
何より、私の興味のあることは一緒になって学ぼうとしてくれた。
私が学校やテレビ、新聞で学んだことを話すと、本心から興味を持って話を聞いてくれているのが分かった。
私はそれがたまらなく嬉しくて、いろんなことを吸収し、母に自慢げに話したものだった。
人並みに大学に進学・就職できたのは、献身的で学習意欲に満ちている母の薫陶を受けてきたからだと、胸を張って言える。
犯罪者
さて、兄だ。
彼は今、どこで何をしているのだろうか。
母曰く、生れたときからそそっかしく、落ち着きのない性格だったという。
彼は盗癖と虚言癖(?)がある。
幼いころから喧嘩や盗みを繰り返しては、父親にボコボコにされていた。
しかし、いわゆる「ヤンキー」のように分かりやすくグレていたわけでもないのだ。
一見、人当たりがよく、好青年に見える(らしい)。
そんな兄は勉強が嫌いで、補欠合格した私立の中学を中退、公立の中学に編入、卒業している。
高校は定時制の公立に入学したが、これも退学になっている。
定時制高校を退学とはよっぽどのことだ。
原因は、そもそも学校へ行っていなかったということと、盗みを働いて裁判沙汰になったというところが大きい。
要は、中卒なのである。
私はそんな兄が心の底から嫌いだった。
幼いころからトラブルしか起こさないし、そのたびに父の怒号が響き渡る。
いくら叱られても、いくらボコボコにされても盗癖は治らず、勉強もしない。
父が一番嫌いな「バカ」な人間であったため、体罰はしばしば度を越えた。
ある時は怒り狂った父親が、兄の背中に箸を突き刺したこともある。
兄の背中から箸が生えているのだ。
何を言っているのか分からないと思うが、これ以上に簡潔な説明の仕方は見つからない。
頭を殴られすぎて、兄の頭が割れ、病院にいったこともある。
病院には本当のことは言わず(体罰だと問題になる)、何針も縫っていた。
そんな意味の分からない光景を毎日のように見せられた。
兄の犯したトラブルで、警察や家裁の人間が家に来たこともあるし、私は近所の人から「厄介者の弟」として見られる。
さらに、兄は平気で家族の物も盗む。
母親の財布から金を抜いたり、私の漫画やゲームも根こそぎ盗まれた。
他にも家出を繰り返して警察のお世話になったり、同級生を殴ったり…
兄に対する認識は「兄」ではなく、「泥棒」であり、そんな泥棒が家の中に住んでいることが耐えられなかった。
特に私が思春期になると、嫌悪感は増し、私が中学に入ってから今の今まで、兄と会話したことが無い。
誇張なしで、一言も言葉を交わしていない。
…と、我が家のトラブルを全て書こうとすると朝日を拝むことになる。
これを読んでいる人は
「闇深いな・・・」
「かわいそうに」
「めんどくさそう」
とか思うことだろう。
しかし、私にとってはこれが日常であったのだ。
今さら同情を求めているわけではないし、過去を変えられるわけではない。
もっともっと目も当てられないような環境で育った人も山ほどいるだろう。
何のことは無い、これが私の唯一の家族なのだ。
〇 〇 〇 〇 〇
パーソナリティ
さて、家族の記述が長くなってしまいました。
私が「排他的」な人間になってしまった原因でしたね。
ここまで読んで頂ければ察しがつくとは思いますが、父と兄の影響が非常に大きいのです。
この2人のおかげで(せいで)他人に対する警戒心というものが強くなってしまったように思います。
父親に怒られない(殴られない)ようにするにはどうしたら良いかを常に考えて育ちました。
そんなこと誰に頼ることもできない(母でさえ父の暴力を止められなかった)ので、すべて自分で考え、行動するしかなかった。
父親の顔色を窺い、行動を先読みして、「バカな行い」をしないように細心の注意を払う。
一方で、家の中には「兄」という名の泥棒が住んでいる。
身内でさえも平気で騙してくる人間の醜さに幼少から触れていれば、アカの他人に対する警戒心はどれだけのものだったのか、想像できるのではないでしょうか。
また、こんな家庭環境をクラスの友人や知り合いに、先生に、気軽に打ち明けられるわけもありません。
打ち明けたところで、
「こいつめんどくさそうやな…」
「闇抱えてる系の奴やん…」
と、思われるのが普通でしょう。
それに、数少ない信頼している人に、そんな風に思われるのがとてつもなく怖かったです。
だから、自然と、他人に自分の話をしなくなった(できなかった)のです。
また、父親の頑固さを色濃く受け継いでしまっているので、自分が認めないものに関しては徹底的に攻撃し、常に相手の主張の穴を探す、ネガティブな人間になってしまいました。
これが、「排他的」で、「壁をつくる」性格になってしまった原因だと思います。
そんな性格であったので、当然、友人は少なかったです。
もうね、本当に人生をやり直したいくらい、他人を傷つけてきて、チープな優越感に浸って、自分だけ満足して生きてきました。
そんな人生を続けて、今や23歳。
自己開示と協働
「何とか自分を変えたい」
今になってその気持ちが強くなってきたのには訳があります。
自己開示の必要性。
これは大学に入って感じたことであります。
大学に入り、専門性を磨くにつれ、自分一人では解決できない(時間がかかる)ことが増えてきました。
ゼミでの産学連携で、企業の従業員満足度を改善する課題。
実際に社会人として働いたことも無ければ、人事制度の「じ」の字も知らない状態。
そんな状況から答えのない課題を解決しようとすると、その道の専門家や、企業の人事の方など、多くの人の知恵や経験が必要になり、他人との協働が最も重要であることが身に沁みました。
また、インターンシップで携帯販売をする中でも、それは同じでした。
限られた時間の中で成果を出すには、先達の教えと現場での連携が重要です。
よく言う「チームプレイ」の大切さ。
それは専門性が上がるにつれ、課題の答えが不明確なほど、必要になります。
私は全く出来ていないことに気が付きました。
こんな私でも、中・高・大学での部活動では部長をしていましたし、アルバイトもそれなりに経験してきて、「チームワーク」は頭でわかったつもりになっていました。
しかし、全くの逆でした。
思い返すと、私が考えていたのはいつも「どうやって人を動かすか」ということばかり。
自分の中で明確な仮説や方針が定まっているときはそれでもよかった。
しかし、自分の限界を知った時、誰にも答えが分からない状況に陥った時、そこに残っていたのは陳腐なプライドと傲慢でした。
「分からない」と言えない。
「できない」と言えない。
極度に失敗を恐れ、他人を陥れることしか考えてこなかった性格が、ここになって自分を苦しめ始めたのです。
「なんだ、そんなことか」と、バカげていると、言われることでしょう。
しかし、23年間こびりついた性格や習慣を取り去ることは容易ではありませんでした。
それはもはやパーソナリティであり、文字通り私という人間の一部になっているのです。
だが、「私はこういう人間だから」と捨て置けばそれまで。
人生という不確実性の大きな課題に向き合った時、自分一人では暗闇に立ち往生してしまうのは目に見えていました。
また、私には夢がありました。
「起業して、自分のやりかたで課題解決していきたい」
しかし、おおよそ自分のような保守的な人間では、声を上げることすら困難であることに、身近な起業家たちと触れ合うことで薄々気づき始めました。
では、自分の強みである批判的な姿勢を生かすためにはどうしたら良いのかと考えるようになりました。
「トップではなく、支える立場になる」
このような結論に至るわけです。
しかし、私の少ない友人のうちに、そのように自分が支えたいと感じる人間はいません。
さらに、自分自身は何の専門性も持っていない。
そう、このように自分の手札を確かめてみると、やはり「他者との協働」が必須であるという考えに至るわけです。
そしてそのための課題として
「他人に信頼してもらう」
ということが浮かび上がるわけです。
他人に信頼してもらうということはどういうことか。
ここでようやく「自己開示」に到達します。
何を考えているのか分からない人は、信頼どうこう以前に近寄りがたいものです。
だから、私という、厄介な存在を、まずは知ってもらおうと。
そう考えたわけです。
とまあ、分かりそうで、抽象が過ぎる駄文を連ねてきましたので、ここからは誤解を恐れず、具体的に何をするかということを書きます。
私のやり方で
まあ、やることは一つなんすけど。
・このブログを晒す。
ということです。
本ブログは2017年、私が宅浪に失敗した年に立ち上げました。
誰に話すこともしていない(できない)孤独と惨めな経験を言語化して鬱積した気持ちを昇華し、同時に何年経っても忘れぬよう書き留めておこう、そんな気持ちで書き始めました。
ある時からたくさんの受験生の方に読んで頂くようになり、TwitterでもDMで受験相談や交流をもったりと、「受験ブログ」の性質を持ち始めました。
しかし、それ以降も一貫して、自分だけで完結させる、備忘録のような性格をもっていたのが本ブログ。
一年経ったあたりで、冒頭のスクショに出てきた友人2人には打ち明けたことはありますが、いわゆる「リア友」に知られたのはそれっきり(私の知る限り)。
いわば、「閉じられた空間」であったわけです。
そりゃあ、自分の惨めな失敗経験や、箸にも棒にも掛からぬ稚拙な思考や文章を身近な人に見られてしまっては、私のプライドが許しません。
しかし、あえて、私という人物のダサさの粋を集めたこのブログを、私の底を、知ってもらえたのなら、信頼とは言えずとも、何かの切っ掛け程度にはなるのではないか。
「もっと方法あるやろw」
そんなことは分かっています。
でも、口や態度で表すのが苦手な自分は、文字に起こすしかないと思ったんです。
また、さっきも言いましたが、23年の習慣を捨て去るって難しいんすよ。
自分が今まで一番避け続けてきたことに目を向けることは並大抵なことではないでしょう。
だって、このままだって十分生きていけるし、感じようとしなければ、何の問題も無いわけです。
でも、私は何とか変えたいんすよ。
何を変えたいのかは分かりません。
自分自身を変えたいのか、ぱっとしない人生を変えたいのか、周囲の環境を変えたいのか、どれも正解なようでしっくりこない。
ただ、今、確かにここにある、ぶつけどころの分からんエネルギーに見ぬふりをするよりも、1度向き合ってみようと感じたのです。
これが、いつもの一貫性の無い、刹那的な衝動である可能性も否めません。
もし3か月後くらいに心変わりしてしまえば、残るのは「よくわからん闇の深い陰キャラ」という烙印でしょう。
…あぁ、こんな否定的な未来しか想像できないから友達が少ないんでしょうね。
でも、試してみたい。
行動を変えようとすると、何か声を上げようとすると、必ず否定的な意見に出くわすことも分かっています。
私のような否定的な人間が外野から執拗に痛めつけてくることも承知です。
また、開放的な人間になったところで悩みが無くなるとも思っていません。
どんな性格でも、どんな立場の人でも悩むことがあるのは当然です。
それを踏まえてでも、私は変わりたい。
ヤジる側で生きるのは飽きました。
と、ここまでとりとめのない文章を重ねてきましたが、自分のことについて書くってのは案外難しいもんすね。
一義的に環境が私のパーソナリティを決定しているわけでもないし、その環境なんてのも複雑性のカタマリであるわけだし。
6千字程度費やしてきたわけですが、まったく言葉っつーものは尽くしても尽くしきれないようで。
こんなもん、何か声を上げれば誰かに誤解されるなんて当たり前のことっすね。
だから、私は、卒論から逃げ続ける。
【学部選び】「やりたいことが無い」君へ【就活】
好きなことで生きていく…?

「やりたいことをやりなさい」
大学受験や就活など、人生の岐路に立った時に、必ず聞くこの言葉。
耳障りが良いようで、一番悩ませられるこの言葉。
まるで、好きなものが1つも置いていないバイキングに来たかのような、そんな感覚。
そう、選びたい放題だとは言っても、その中に好きなものが無いから困ってるんすよね。
私自身、受験の学部選びでは困ったことはありませんが、就活で困りました。
そもそも、人生をかけてやりたいことなどなかったのです
しかも、自分の今後の人生を考えたとき、「ただ好きだから」では済ませられないような気がします。
当然、稼いでいかなくてはなりませんし、社会的な地位も欲しい。
親戚や親の目も気になる。
「やっぱり好きなことで稼ぎたいけど、そんなもの見つかっていないし、でも、欲しいものは欲しい。」
こうした欲張りな自分に嫌気がさしてしまいました。
この記事を読んでいるあなたならば同じような悩みを抱えていることでしょう。
そこで、私の23歳時点での差し当たっての結論をお話したいと思います。
なんで「やりたいこと」が見つからないの?
やりたいことってどうやったら見つかるのでしょうか。
それも人生を賭けていいと思えるほどの熱情を注げるほどのもの。
23歳の私の答えはこうです。
「勉強して知識を得るしかない」
今夜のおかずは何にしますか?

おかずっつっても変な意味じゃないっすよ?
食べ物のおかずです。
カレー?寿司?ラーメン?焼き肉?おでん?
選択肢は無限にあることでしょう。
しかし、「やりたいことは何?」って聞かれて答えられない人は、驚くことに
「カレー、寿司、ラーメン」
の3つくらいの中から選ぼうとしているのと同じことをしているんすよ。
世界には、数えきれないほどの料理があるはずなのに、カレー、寿司、ラーメンしか知らない状態で「好きな食べ物は?」って聞かれているんです。
そんなもん、カレーも寿司もラーメンも嫌いだったら、一生マズイ飯を食って生きていかなきゃならんことになりますわな。
何が言いたいかっていうと、「やりたいことが無い」っていう人は選択肢の幅が狭いんですよ。
世の中にはトンカツや、アクアパッツァ、フォー(ベトナムの郷土料理)、その他見たことも味わったことも無いものがたくさんあるはずです。
同じように、システム開発の仕事や、エレベーターの点検業者、ブロガーなんて言うのも立派な仕事。
食べ物の種類ほどでないにしろ、世の中にはあなたの知らない職業や学術的な分野は山ほどあります。
また、同じ分野でも細分化してみるとまた違った風に見える。
「カレー」と一口に言っても、「南インド風」もあれば、「欧風」もあり、「スープカレー」なんかもある。
同じように、「経営学部」と一口に言っても、「企業戦略」の分野もあれば、人事分野の「組織経営」もある。
「教師」といっても、予備校講師もいれば、小学校で働くのと高校で働くのではまるで違います。
こんな風に解像度を上げてみると、それこそ★の数ほどの選択肢が現れるわけです。
このように、やりたいことが見つからない原因として、①選択肢の少なさと、②解像度の低さが考えられます。
悩んでいても、迷っているわけではない

「やりたいことが無い」と悩んでいる人の多くが、上述のように、少ない選択肢の中から「好きなこと」を選ぼうとしているように思います。
つまり、あなたは複数の魅力的な選択肢を抱えていて、どれを選ぼうか迷っているわけではないのです。
いつか「やりたいことが降ってくる」と無意識に信じこんで、自分は無能だと、才能がないと、自分を哀れんでいるに過ぎないのです。
それでもたまたま短い人生で大好物を見つけられた人が、プロ野球選手になったりする例はあります。
しかし、99%の凡人に対して「これはどう?こっちは好き?」などと手を差し伸べてくれる慈善団体も神様もこの世には存在しません(信じるのは別ですが)。
自ら能動的に動き出さなければいけないのです。
勉強するために勉強する
選択肢の幅を広げ、解像度を上げるために、能動的に動き出せば、変わる。
では、具体的にどうしたらよいのでしょうか。
「勉強する」。これに尽きます。
学部選びなら、世の中にどんな学部があるのか。
就活なら、世の中にどんな職業があるのか。
これは単なる「情報収集」とは異なります。
インターネットや書籍で情報を集めることも大事ですが、あなたは今から人生を捧げるような選択をするのです。
どこでゆがめられているのか分からないメディアの情報に踊らされて、「やっぱり思ってたのと違った」では笑えないわけですな。
大事なのは自分の足を動かすこと。
先輩や教授に話を聞きに行ったり、大学に潜り込んだり、インターンシップや企業説明会に足を運んだり。
自分の舌で味わってみることで初めて、「トンカツ」という食べ物が自分の舌に合っているのかそうでないのか判断できるわけです。
そこからようやく、「迷い」始めるわけです。
すべての恐怖の原因は無知です。
幽霊も、受験も、未来も、その対象がどんなものなのか、次に何が起こるか分かっていれば決して怖くはないはずです。
だからこそ、イメージで塗り固められた恐怖に悩み苦しむ現状から抜け出すためには、勉強して知識と経験を身に着けるほかはないのです。
世の中、意外と学びたいという人には優しい人が多いので、「そんなん無理やろ」と決めつけず、周囲に助けを求めてみましょう。
おまえはどうやねん
最後になりましたが、かくいう私もやりたいことを見つけたわけではありません。
そもそも「一生続けられること」を探すことはとても難しいです。
それに、「やりたいこと」を見つけた人が偉いとか、そうでない人はゴミだとか、そんな話でもないと思います。
ただ、何もせずに悩んでいるだけなら、勉強して視野を広げたほうが自分にとって面白いと思える選択肢が増えることは確かです。
私の就職先は中小企業のコンサルティング会社ですが、別にそこに骨を埋めようと思って決めたわけではありません。
高校のころから経営コンサルタントに憧れていたのは事実ですが、「一生やり遂げられる」ほど情熱を注げるかは分かりませんし、私程度のアタマで食っていけるかどうかも分かりません。
ただ、興味のある方角であったことに違いは無いので、その中でも自分が何が面白いと感じるのか「勉強しにいこう」と思って入社を決めました。
この先私の人生がどうなるかんて分かりません。
入社後3か月で辞めているかもしれません。
定年まで働き続けているかもしれません。
それはすべての人に言えることだと思います。
「別に今スグにやりたいことを決める必要なんてないんだ。会社に入ってから見つけるっていう選択肢もアリなんじゃないか。」
そう考え始めると心が楽になりました。
しかし、それは同時に諦めであったことも自覚しています。
自分の適性を確かめたり、もっと勉強できることはあったのではないか。
就職が決まってからも悩み続けています。
ただ、受験や就活といった期限が決められている以上、どこかで区切りをつけて決断をする必要があります。
いつまでも悩んでいては肝心の受験勉強や就活に時間をつかうことができません。
そうなんです。時間が無いんすよ。
貧乏暇なし、とはよく言ったものです。
だから、そこの凡人のあなた。
自分の弱さを自覚して、ひたすら急ぎましょう。
口を開けて寝そべっている暇はありません。
自分の足で、歩き出しましょう。
これが、23歳の私の答えです。
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外野を黙らせろ
何か新しいことに挑戦するとき。
何かきっかけをつかもうともがくとき。
かならず文句やヘイトをぶつけてくる奴らがいる。
それは知り合いや友人であったり、親であったり、あるいは自分の中に存在する否定的なもう一人の自分であったりする。
決まってそいつらは初めから完璧なものを求め、クソの役にも立たないような否定的な考えを述べてくる。
そいつら自身で挑戦したことも無ければ、こっちの状況や感情をよく知りもせず、イメージだけでものを語りやがる。
そんな奴らはどこからだってやってくる。
自分が大きなことに挑戦しようとするほど、他人の協力が必要なほど、そんな奴らはどこからともなくワラワラとゴキブリのように集まってきて、何の生産性もない主観と悲観をぶつけてきて、帰っていく。
そんなチンケな方法でしか自尊心や承認欲求、自分の正当性を確かめることができないのだ。
こいつらの存在をこの世から消し去ることは不可能だ。
だが、許せない。
何のリスクも取らず、安全地帯からぬくぬくと石のつぶてを投げつけてきやがる。
クソみてえな奴らだ。
だが、そこでおめおめと尻尾を巻いて背中を見せていては奴らはつけあがり、テリトリーを広げられるだけだ。
奴らが芽を摘むようなことを繰り返すのであれば、こちらは毅然とした態度で、真正面から向き合い、結果を出して黙らせるしかない。
他人からなにを言われようが、どれだけみじめな失敗を重ねようが、膝をついてはならない。
ただ、ひたすらに前進するしかない。
今、いくら成功体験が無くたって、辞めれば0と同じ。何もやっていないことと変わらない。
私は絶対に許せない。
だから、極限まで頭を使い、嫌いだろうが嫌だろうが何だろうが、結果を出している奴に教えを乞い、蛆虫どもを蹂躙するまでは死ねない。
この国の、人間の、悪しき風習を振り払うためには、今ある環境にいくら唾を吐いたって無駄だ。
敵の土俵で、あいつらのルールで黙らせるしかない。
資本市議がどうだとか、教育制度がどうだとか、嘆いても時間の無駄だ。
必要ならば悪にだってならなければいけない。
それは負けではない。
服従でもない。
真っ向勝負だ。
絶対に負けない。
死の剥奪説について
どうも、みるこです。
宅浪失敗を経て地方公立大学の4回生である23歳です。
さて、以前に書いた記事
は多くの方に目を通していただきました。
内容を簡単に要約すると、
「死ぬことって悪いことなの?もちろん死んだら幸せな出来事も経験できないけど、苦しいことも感じなくなるんだから、この世の人類みんないなくなれば、平和な世の中になるんじゃね?」
っていうことです。
この記事に対して、
「剥奪説をご参照ください」
とコメントしてくださった方がいました。
(コメントありがとうございました!)
今回の記事はその「剥奪説」とやらをちらっと調べて感じたことを書きます。
死に関する話で、小難しく、暗くなってしまうのは嫌なので、いたって平易に(俗的に)書きます。
「ほーん。そんな考えもあるんか~。」くらいのテンションで、リラックスして読んでください~
剥奪説についてはこの方↓の記事がとても分かりやすかったです。
まず、「剥奪説」というものをチョー適当に紹介します。
(それは違うやろ!ってのがあったらコメントでオナシャス。)
剥奪説ってのは、「死」の良し悪しに関する学説で、ユーゴスラビア出身のトマス・ネーゲルっつー人が唱えてるっぽいです。
「死は、その人が将来獲得する体験を剥奪してしまうという点で悪である」
という主張です。
彼女に振られるっていう苦しい体験にしろ、志望校に合格するっていう喜ばしい体験にしろ、生きているうえで遭遇するすべての「体験」は死んでしまったら経験できないものなんすね。
当り前じゃけども。
てなもんやから、その内容に関わらず、「体験」そのものが良いものであって、将来受け取れるその良いもん(ありがたいもの?)を失ってしまうっていう意味で死は悪である、と。
死は将来の体験を剥奪するものである。
これが剥奪説っつーわけですわ。
こうしてみると、まったく反論の余地が無いように思えますな。
しかし、これは、個人の死に対する議論であって、人類全体の死に対する議論ではないように思えます。
私が宅浪中に悩んでいたのは、以下の二点です。
「私自身は死ねば苦楽や感覚・感情もろとも消え去るので、救済になるのでは」
「人類が滅亡すれば、戦争だとか、貧困だとか、すべての事象を発生させ、評価・判断する主体が存在しなくなるため、真の平和が訪れるのでは」
前者が個人の死について。
後者が人類の死について。
前者については剥奪説の立場に立てば論理的には否定できる感じはあります。
しかし、後者に関してはどうでしょうか。
何にしろ、物事の良し悪しを評価・判断している時点で、人間の生を前提とする必要があります。
「体験そのものが良いものだ」と論じている時点で、それは人類の存在を肯定している。
「いやいや、人類皆滅びたら、そんなコムズカシイ議論をする必要もなくなるんじゃないすか」
っていうのが、幼稚なワイが論じる暴論です。
まあ、こんなことを言い出したらこの世のすべての議論が議論でなくなってしまうわけだし、剥奪説と真っ向から向き合っているとは言えないです。
でも、ワシはこう感じてしまったんで
「論理的には分かったけど、それだけで死は悪であるとは到底納得できない。」
たしかに、どんな経験も生きていればこそ。
死んでしまえば家族との繋がりも、友人との絆も、夢も、財産も全て消えてしまう。
だけれど、現時点で苦しみの総量が幸福のそれを圧倒的に上回ってしまっている時、それでも「経験できるってことは幸せなんだよ?」なんて、平気な顔して言えるでしょうか。
ここからは、剥奪説の議論から完璧に逃げた、しょうもない学生の正直な感想です。
どうか適当に聞いてください

まず、私が剥奪説を調べていく中で感じたことがあります。
「あれ、おれは死を肯定したがっているんじゃないのか?」
どこかで論に穴が無いかと粗探しをしている自分に気が付きました。
そして、ある程度論旨を把握した後でも、納得がいかない。
理解はできるが、納得できない。
「死のうかと迷うほど苦しんでいる人を目の前にして、果たしてこの論で納得させられるだろうか。」
もちろん、剥奪説が自殺志願者を説得させるために論じられたものではないことは理解しています。
それにしても納得がいかない。
「ああ、自分はやはり感情>論理の人間なんだな。」
「それだけじゃない、死を苦しみの果ての逃げ道として肯定したがっている、ひどく利己的な人間だ。」
「そして、将来起こりうる良いことよりも、苦しみに目を向けてしまう、根っからのネガティブ人間なんだ。」
自分の性格の嫌なところばっかり気づかされた。
いや、ネガティブな人間だから嫌なところばっか見えるのか。
こんなので将来幸せになれんのか…
あ、心配しないでくださいね。
全然死ぬつもりなんてないっすからw
最近は卒論に会社の研修に簿記にインターンにバイトに遊びに大忙しです。
悩む暇なんてないくらい。
家で一人でいるときほど思考の矢印は自分に向けられ、ネガティブな自分は病んでしまうってことを宅浪の時に経験済みなんです。
だから、忙しくする。
貧乏暇無し。
あれ、でも、このままいくと電通事件みたいに過労死してしまうかも。
死から逃げた先はほんとの意味での忙殺。
あれれ。
「死んではいけない理由を教えてください。」
さて、あなたなら何と声をかけますか?
Twitterにて、質問や文句を受け付けています!
愚痴でもなんでもいいので、気軽に話かけてくださいね!
Twitterが面倒な人は↓からコメントしてください!
また、いいね・ブックマークもお願いします~
では!
カテキョの生徒が勉強しない②学習障害
3教科合計33点の生徒(仮称:A君)。
私のミッションは、あと半年で合計100点まで引き上げ、私立高校に合格させること。
点数もさることながら、A君のカルテには気になる記述があった。

「母親によると、A君は学習障害の疑いがある。」
家庭教師は個人での契約ではなく、派遣会社に登録していたため、契約前に生徒の詳細が書かれたカルテが会社から送られてくるのだ。
非常に悩んだ。
私の指導経験は浅く、塾の集団授業のアルバイトを3か月ほどやったことがある程度で、家庭教師をやったことは無いし、ましてや学習障害の生徒を教えたことなどなかった。
正直、学習障害という言葉は聞きなれず、初めに思い浮かんだのは小学校のひまわり学級であった。
いわゆる特別支援学級。
小学生の当時は、みんなと同じことができない、奇異な存在として差別的な視線を向けていた。
「そんな自分に偉そうに教える資格があるのだろうか。」
私は学習障害という言葉を調べることから始めた。
以下引用@Wikipedia
「学習障害とは、聞き、話し、書き、推理する能力、算数の能力を取得したりするのが著しく困難な、さまざまな問題群の呼び名である。そのような問題は、生まれつきの中枢神経の働きの障害によるものと考えられる。 学習障害は、他のハンディキャップ(たとえば、感覚の障害、精神遅滞、社会性や情緒の障害など)や不適切な環境(文化的な違い、望ましくない教育など)からも生じるが、そのようなハンディキャップや環境から直接生じるものではない。」— (1981年 学習障害に関する連邦合同委員会報)
- 原因が分かっていない
- 読むのが苦手な人(ディスレクシア)
- 書くのが苦手な人(ディスぐラフィア)
- 計算が苦手な人(ディスカリキュラ)
このような特徴を持つのが学習障害である。
大事なのは、学習障害は発達障害の一種ではあるが、程度の差こそあれ、すべての人に当てはまる可能性があるものなのだ。
学習障害については下記サイトが詳しい。
学習障害のチェック項目もあるので、やってみてほしい。
こうしたことを鑑みた結果、案件を引き受けることにした。
何とかA君の力になりたいと思ったからだ。
実はA君は私の中学の後輩にあたる。
更に、住んでいる団地も同じだった。
何もない、貧しいURの団地で育った彼に勝手に親近感を覚え、何とか勉強の楽しさを伝えたいと考えたのだ。
とはいえ、授業を始める前から課題は山積みだった。
7月、受験まで半年。
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