宅浪落ちた。

宅浪して落ちたワイ。成功した人のオ〇ニー日記に飽きた人へ。

死の剥奪説について

どうも、みるこです。

 

宅浪失敗を経て地方公立大学の4回生である23歳です。

 

さて、以前に書いた記事

宅浪時代に一番悩んだこと - 宅浪落ちた。

は多くの方に目を通していただきました。

 

内容を簡単に要約すると、

 

「死ぬことって悪いことなの?もちろん死んだら幸せな出来事も経験できないけど、苦しいことも感じなくなるんだから、この世の人類みんないなくなれば、平和な世の中になるんじゃね?」

 

っていうことです。

 

この記事に対して、

 

「剥奪説をご参照ください」

 

とコメントしてくださった方がいました。

(コメントありがとうございました!)

 

今回の記事はその「剥奪説」とやらをちらっと調べて感じたことを書きます。

 

死に関する話で、小難しく、暗くなってしまうのは嫌なので、いたって平易に(俗的に)書きます。

 

「ほーん。そんな考えもあるんか~。」くらいのテンションで、リラックスして読んでください~

 

剥奪説についてはこの方↓の記事がとても分かりやすかったです。

note.com

 

まず、「剥奪説」というものをチョー適当に紹介します。

(それは違うやろ!ってのがあったらコメントでオナシャス。)

 

剥奪説ってのは、「死」の良し悪しに関する学説で、ユーゴスラビア出身のトマス・ネーゲルっつー人が唱えてるっぽいです。

 

「死は、その人が将来獲得する体験を剥奪してしまうという点で悪である」

という主張です。

 

 

彼女に振られるっていう苦しい体験にしろ、志望校に合格するっていう喜ばしい体験にしろ、生きているうえで遭遇するすべての「体験」は死んでしまったら経験できないものなんすね。

 

当り前じゃけども。

 

てなもんやから、その内容に関わらず「体験」そのものが良いものであって、将来受け取れるその良いもん(ありがたいもの?)を失ってしまうっていう意味で死は悪である、と。

 

死は将来の体験を剥奪するものである。

 

これが剥奪説っつーわけですわ。

 

 

こうしてみると、まったく反論の余地が無いように思えますな。

 

しかし、これは、個人の死に対する議論であって、人類全体の死に対する議論ではないように思えます。

 

 

私が宅浪中に悩んでいたのは、以下の二点です。

 

「私自身は死ねば苦楽や感覚・感情もろとも消え去るので、救済になるのでは」

 

「人類が滅亡すれば、戦争だとか、貧困だとか、すべての事象を発生させ、評価・判断する主体が存在しなくなるため、真の平和が訪れるのでは」

 

前者が個人の死について。

後者が人類の死について。

 

前者については剥奪説の立場に立てば論理的には否定できる感じはあります。

 

しかし、後者に関してはどうでしょうか。

 

何にしろ、物事の良し悪しを評価・判断している時点で、人間の生を前提とする必要があります。

 

「体験そのものが良いものだ」と論じている時点で、それは人類の存在を肯定している。

 

「いやいや、人類皆滅びたら、そんなコムズカシイ議論をする必要もなくなるんじゃないすか」

 

っていうのが、幼稚なワイが論じる暴論です。

 

まあ、こんなことを言い出したらこの世のすべての議論が議論でなくなってしまうわけだし、剥奪説と真っ向から向き合っているとは言えないです。

 

 

でも、ワシはこう感じてしまったんで

 

「論理的には分かったけど、それだけで死は悪であるとは到底納得できない。」

 

たしかに、どんな経験も生きていればこそ。

 

死んでしまえば家族との繋がりも、友人との絆も、夢も、財産も全て消えてしまう。

 

だけれど、現時点で苦しみの総量が幸福のそれを圧倒的に上回ってしまっている時、それでも「経験できるってことは幸せなんだよ?」なんて、平気な顔して言えるでしょうか。

 

 

ここからは、剥奪説の議論から完璧に逃げた、しょうもない学生の正直な感想です。

 

どうか適当に聞いてください

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まず、私が剥奪説を調べていく中で感じたことがあります。

 

「あれ、おれは死を肯定したがっているんじゃないのか?」

 

どこかで論に穴が無いかと粗探しをしている自分に気が付きました。

 

そして、ある程度論旨を把握した後でも、納得がいかない。

 

理解はできるが、納得できない。

 

「死のうかと迷うほど苦しんでいる人を目の前にして、果たしてこの論で納得させられるだろうか。」

 

もちろん、剥奪説が自殺志願者を説得させるために論じられたものではないことは理解しています。

 

それにしても納得がいかない。

 

「ああ、自分はやはり感情>論理の人間なんだな。」

 

「それだけじゃない、死を苦しみの果ての逃げ道として肯定したがっている、ひどく利己的な人間だ。」

 

「そして、将来起こりうる良いことよりも、苦しみに目を向けてしまう、根っからのネガティブ人間なんだ。」

 

自分の性格の嫌なところばっかり気づかされた。

 

いや、ネガティブな人間だから嫌なところばっか見えるのか。

 

こんなので将来幸せになれんのか…

 

 

 

 

 

 

 

あ、心配しないでくださいね。

 

全然死ぬつもりなんてないっすからw

 

最近は卒論に会社の研修に簿記にインターンにバイトに遊びに大忙しです。

 

悩む暇なんてないくらい。

 

家で一人でいるときほど思考の矢印は自分に向けられ、ネガティブな自分は病んでしまうってことを宅浪の時に経験済みなんです。

 

だから、忙しくする。

 

貧乏暇無し。

 

 

 

あれ、でも、このままいくと電通事件みたいに過労死してしまうかも。

 

死から逃げた先はほんとの意味での忙殺。

 

あれれ。

 

 

 

 

「死んではいけない理由を教えてください。」

 

 

 

 

さて、あなたなら何と声をかけますか?

 

 

 

 

 

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