今回は受験でもなんでもなく、私という人物に関する記述であるため、暇な人だけ読んでください。
ちなみにクソ長いんでオススメしません。
〇 〇 〇 〇 〇
壁を作る
これは私が就活をしていたときのこと。
自分という人物はどんな人間なのか、一番尊敬している友人2人に聞いてみた。
いわゆる”自己分析”ってやつの一環として。
「芯があって、ストイックに取り組むことはできるが、排他的で壁を作ってしまう」というのが彼らの見解らしい。
彼らとは幼稚園以来の同級生で、彼ら以上に私を知る人物はいないだろう。
「そのとおり。」
頷くしかなかった。
私がなぜそのような人物になってしまったかということを説明するには、私の家族のことをお話しする必要があります。
〇 〇 〇 〇 〇
家族
私は兵庫県の片田舎に生まれ、育った。
4つ年上の兄と両親の4人家族。
我が家は父親を中心に回っている。
父はサラリーマン。
ザ・昭和の亭主関白で、自分の思い通りにならないことがあれば声を荒げ、簡単に手を上げる。
私や兄だけでなく、母親にも手を上げることだってある。
鉄拳制裁。
いや、大義名分がある制裁ならまだいい。
要領が悪かったり、何か失敗をしたときは必ず「バカだ」と罵倒しながら、殴られたものだ。
「殴り棒」という、私と兄を痛めつける専用の棒(元々は釣り竿の材料)があったくらいで、ミミズ腫れは4,5歳からつくっていた記憶がある。
何かあると、
「殴り棒取ってこい!」
と、自ら取りに行かされた。
全く、今振り返ると、奴隷のような扱いであった。
とにかく頑固で、バカが嫌いで、利己的な人間。
一方、母親は優しく、いつも私たちをかばってくれた。
母も決して気が弱いわけではない。
間違っていることがあれば毅然とした態度で叱ってくれた。
そして、勤勉で、「学ぶ」ことを愛している。
今でも英語の参考書を買ってきては読み漁っている。
何より、私の興味のあることは一緒になって学ぼうとしてくれた。
私が学校やテレビ、新聞で学んだことを話すと、本心から興味を持って話を聞いてくれているのが分かった。
私はそれがたまらなく嬉しくて、いろんなことを吸収し、母に自慢げに話したものだった。
人並みに大学に進学・就職できたのは、献身的で学習意欲に満ちている母の薫陶を受けてきたからだと、胸を張って言える。
犯罪者
さて、兄だ。
彼は今、どこで何をしているのだろうか。
母曰く、生れたときからそそっかしく、落ち着きのない性格だったという。
彼は盗癖と虚言癖(?)がある。
幼いころから喧嘩や盗みを繰り返しては、父親にボコボコにされていた。
しかし、いわゆる「ヤンキー」のように分かりやすくグレていたわけでもないのだ。
一見、人当たりがよく、好青年に見える(らしい)。
そんな兄は勉強が嫌いで、補欠合格した私立の中学を中退、公立の中学に編入、卒業している。
高校は定時制の公立に入学したが、これも退学になっている。
定時制高校を退学とはよっぽどのことだ。
原因は、そもそも学校へ行っていなかったということと、盗みを働いて裁判沙汰になったというところが大きい。
要は、中卒なのである。
私はそんな兄が心の底から嫌いだった。
幼いころからトラブルしか起こさないし、そのたびに父の怒号が響き渡る。
いくら叱られても、いくらボコボコにされても盗癖は治らず、勉強もしない。
父が一番嫌いな「バカ」な人間であったため、体罰はしばしば度を越えた。
ある時は怒り狂った父親が、兄の背中に箸を突き刺したこともある。
兄の背中から箸が生えているのだ。
何を言っているのか分からないと思うが、これ以上に簡潔な説明の仕方は見つからない。
頭を殴られすぎて、兄の頭が割れ、病院にいったこともある。
病院には本当のことは言わず(体罰だと問題になる)、何針も縫っていた。
そんな意味の分からない光景を毎日のように見せられた。
兄の犯したトラブルで、警察や家裁の人間が家に来たこともあるし、私は近所の人から「厄介者の弟」として見られる。
さらに、兄は平気で家族の物も盗む。
母親の財布から金を抜いたり、私の漫画やゲームも根こそぎ盗まれた。
他にも家出を繰り返して警察のお世話になったり、同級生を殴ったり…
兄に対する認識は「兄」ではなく、「泥棒」であり、そんな泥棒が家の中に住んでいることが耐えられなかった。
特に私が思春期になると、嫌悪感は増し、私が中学に入ってから今の今まで、兄と会話したことが無い。
誇張なしで、一言も言葉を交わしていない。
…と、我が家のトラブルを全て書こうとすると朝日を拝むことになる。
これを読んでいる人は
「闇深いな・・・」
「かわいそうに」
「めんどくさそう」
とか思うことだろう。
しかし、私にとってはこれが日常であったのだ。
今さら同情を求めているわけではないし、過去を変えられるわけではない。
もっともっと目も当てられないような環境で育った人も山ほどいるだろう。
何のことは無い、これが私の唯一の家族なのだ。
〇 〇 〇 〇 〇
パーソナリティ
さて、家族の記述が長くなってしまいました。
私が「排他的」な人間になってしまった原因でしたね。
ここまで読んで頂ければ察しがつくとは思いますが、父と兄の影響が非常に大きいのです。
この2人のおかげで(せいで)他人に対する警戒心というものが強くなってしまったように思います。
父親に怒られない(殴られない)ようにするにはどうしたら良いかを常に考えて育ちました。
そんなこと誰に頼ることもできない(母でさえ父の暴力を止められなかった)ので、すべて自分で考え、行動するしかなかった。
父親の顔色を窺い、行動を先読みして、「バカな行い」をしないように細心の注意を払う。
一方で、家の中には「兄」という名の泥棒が住んでいる。
身内でさえも平気で騙してくる人間の醜さに幼少から触れていれば、アカの他人に対する警戒心はどれだけのものだったのか、想像できるのではないでしょうか。
また、こんな家庭環境をクラスの友人や知り合いに、先生に、気軽に打ち明けられるわけもありません。
打ち明けたところで、
「こいつめんどくさそうやな…」
「闇抱えてる系の奴やん…」
と、思われるのが普通でしょう。
それに、数少ない信頼している人に、そんな風に思われるのがとてつもなく怖かったです。
だから、自然と、他人に自分の話をしなくなった(できなかった)のです。
また、父親の頑固さを色濃く受け継いでしまっているので、自分が認めないものに関しては徹底的に攻撃し、常に相手の主張の穴を探す、ネガティブな人間になってしまいました。
これが、「排他的」で、「壁をつくる」性格になってしまった原因だと思います。
そんな性格であったので、当然、友人は少なかったです。
もうね、本当に人生をやり直したいくらい、他人を傷つけてきて、チープな優越感に浸って、自分だけ満足して生きてきました。
そんな人生を続けて、今や23歳。
自己開示と協働
「何とか自分を変えたい」
今になってその気持ちが強くなってきたのには訳があります。
自己開示の必要性。
これは大学に入って感じたことであります。
大学に入り、専門性を磨くにつれ、自分一人では解決できない(時間がかかる)ことが増えてきました。
ゼミでの産学連携で、企業の従業員満足度を改善する課題。
実際に社会人として働いたことも無ければ、人事制度の「じ」の字も知らない状態。
そんな状況から答えのない課題を解決しようとすると、その道の専門家や、企業の人事の方など、多くの人の知恵や経験が必要になり、他人との協働が最も重要であることが身に沁みました。
また、インターンシップで携帯販売をする中でも、それは同じでした。
限られた時間の中で成果を出すには、先達の教えと現場での連携が重要です。
よく言う「チームプレイ」の大切さ。
それは専門性が上がるにつれ、課題の答えが不明確なほど、必要になります。
私は全く出来ていないことに気が付きました。
こんな私でも、中・高・大学での部活動では部長をしていましたし、アルバイトもそれなりに経験してきて、「チームワーク」は頭でわかったつもりになっていました。
しかし、全くの逆でした。
思い返すと、私が考えていたのはいつも「どうやって人を動かすか」ということばかり。
自分の中で明確な仮説や方針が定まっているときはそれでもよかった。
しかし、自分の限界を知った時、誰にも答えが分からない状況に陥った時、そこに残っていたのは陳腐なプライドと傲慢でした。
「分からない」と言えない。
「できない」と言えない。
極度に失敗を恐れ、他人を陥れることしか考えてこなかった性格が、ここになって自分を苦しめ始めたのです。
「なんだ、そんなことか」と、バカげていると、言われることでしょう。
しかし、23年間こびりついた性格や習慣を取り去ることは容易ではありませんでした。
それはもはやパーソナリティであり、文字通り私という人間の一部になっているのです。
だが、「私はこういう人間だから」と捨て置けばそれまで。
人生という不確実性の大きな課題に向き合った時、自分一人では暗闇に立ち往生してしまうのは目に見えていました。
また、私には夢がありました。
「起業して、自分のやりかたで課題解決していきたい」
しかし、おおよそ自分のような保守的な人間では、声を上げることすら困難であることに、身近な起業家たちと触れ合うことで薄々気づき始めました。
では、自分の強みである批判的な姿勢を生かすためにはどうしたら良いのかと考えるようになりました。
「トップではなく、支える立場になる」
このような結論に至るわけです。
しかし、私の少ない友人のうちに、そのように自分が支えたいと感じる人間はいません。
さらに、自分自身は何の専門性も持っていない。
そう、このように自分の手札を確かめてみると、やはり「他者との協働」が必須であるという考えに至るわけです。
そしてそのための課題として
「他人に信頼してもらう」
ということが浮かび上がるわけです。
他人に信頼してもらうということはどういうことか。
ここでようやく「自己開示」に到達します。
何を考えているのか分からない人は、信頼どうこう以前に近寄りがたいものです。
だから、私という、厄介な存在を、まずは知ってもらおうと。
そう考えたわけです。
とまあ、分かりそうで、抽象が過ぎる駄文を連ねてきましたので、ここからは誤解を恐れず、具体的に何をするかということを書きます。
私のやり方で
まあ、やることは一つなんすけど。
・このブログを晒す。
ということです。
本ブログは2017年、私が宅浪に失敗した年に立ち上げました。
誰に話すこともしていない(できない)孤独と惨めな経験を言語化して鬱積した気持ちを昇華し、同時に何年経っても忘れぬよう書き留めておこう、そんな気持ちで書き始めました。
ある時からたくさんの受験生の方に読んで頂くようになり、TwitterでもDMで受験相談や交流をもったりと、「受験ブログ」の性質を持ち始めました。
しかし、それ以降も一貫して、自分だけで完結させる、備忘録のような性格をもっていたのが本ブログ。
一年経ったあたりで、冒頭のスクショに出てきた友人2人には打ち明けたことはありますが、いわゆる「リア友」に知られたのはそれっきり(私の知る限り)。
いわば、「閉じられた空間」であったわけです。
そりゃあ、自分の惨めな失敗経験や、箸にも棒にも掛からぬ稚拙な思考や文章を身近な人に見られてしまっては、私のプライドが許しません。
しかし、あえて、私という人物のダサさの粋を集めたこのブログを、私の底を、知ってもらえたのなら、信頼とは言えずとも、何かの切っ掛け程度にはなるのではないか。
「もっと方法あるやろw」
そんなことは分かっています。
でも、口や態度で表すのが苦手な自分は、文字に起こすしかないと思ったんです。
また、さっきも言いましたが、23年の習慣を捨て去るって難しいんすよ。
自分が今まで一番避け続けてきたことに目を向けることは並大抵なことではないでしょう。
だって、このままだって十分生きていけるし、感じようとしなければ、何の問題も無いわけです。
でも、私は何とか変えたいんすよ。
何を変えたいのかは分かりません。
自分自身を変えたいのか、ぱっとしない人生を変えたいのか、周囲の環境を変えたいのか、どれも正解なようでしっくりこない。
ただ、今、確かにここにある、ぶつけどころの分からんエネルギーに見ぬふりをするよりも、1度向き合ってみようと感じたのです。
これが、いつもの一貫性の無い、刹那的な衝動である可能性も否めません。
もし3か月後くらいに心変わりしてしまえば、残るのは「よくわからん闇の深い陰キャラ」という烙印でしょう。
…あぁ、こんな否定的な未来しか想像できないから友達が少ないんでしょうね。
でも、試してみたい。
行動を変えようとすると、何か声を上げようとすると、必ず否定的な意見に出くわすことも分かっています。
私のような否定的な人間が外野から執拗に痛めつけてくることも承知です。
また、開放的な人間になったところで悩みが無くなるとも思っていません。
どんな性格でも、どんな立場の人でも悩むことがあるのは当然です。
それを踏まえてでも、私は変わりたい。
ヤジる側で生きるのは飽きました。
と、ここまでとりとめのない文章を重ねてきましたが、自分のことについて書くってのは案外難しいもんすね。
一義的に環境が私のパーソナリティを決定しているわけでもないし、その環境なんてのも複雑性のカタマリであるわけだし。
6千字程度費やしてきたわけですが、まったく言葉っつーものは尽くしても尽くしきれないようで。
こんなもん、何か声を上げれば誰かに誤解されるなんて当たり前のことっすね。
だから、私は、卒論から逃げ続ける。